大郷町東成田字西光寺(地名)に支倉常長メモリアルパークがあります。桂藏寺の弟子である郷土歴史研究家佐藤宗岳師が苦労を重ねて、支倉常長の墓を研究されました。
支倉氏家中伊藤氏の口伝によると「政宗様の御指示により、この郷のかくれ人になって暮らした人である」と伝えられ、支倉屋敷跡があり伊藤家が常長の領収書などの古文書をもたれていたことなどを踏まえ、この地に眠られたと伝えられています。
常長の墓は、宮城県内に3か所あり、その内の1つが大郷町にあります。宗岳師は大郷のお墓が本当の常長の墓であることを証明すべく、昭和32年に「支倉六右衛門常長の墓について」を執筆しました。
現在、常長のお墓はメモリアルパークとして町が美しく整備し、全国から多くの人が常長の偉業を讃え、お墓に参拝されています。
支倉家系図書常信の条に「貞享2年2月20日卒、年48、葬干黒川郡大谷郷川内桂藏寺、法名花岳宗香信士」と記載されており、明治初期迄支倉常長9世に当たる支倉清成と夫人の墓があります。
支倉常信は常長の孫であり「祖君常長の墓前に石灯篭を献じた」とされたという方です。また、常長9世の支倉清成は、仙台藩士であり、明治維新で禄を失い、生活の糧を得るため、仙台から現大郷町川内安戸に住み、寺子屋を営み松島や仙台方面から幅広く子弟教育し、「支倉先生」と敬称され、本人は仙台に戻らず、地元の女性と暮らし養子を迎え、安戸にて生涯を閉じられました。
仙台人名大辞書の川内支倉氏の部(P860)より、支倉常長の孫にあたる支倉又兵衛常信は、常長の600石が衰退した支倉家を60石まで再興された方とされています。
宮城県史において常信→盛清(養子)となっていますが、当寺にある墓所には常信の次は常盛となっています。現在でも支倉家の遠縁の子孫がおり、川内支倉氏の墓守をされてます。
川内支倉氏系譜調では
大郷町史 | 宮城県史 | 仙台人名大辞書 |
常信 | 常信 | 常信 |
常盛 | 常角 | |
盛清 | 盛清 | |
清風 | 清風 | |
清隆 | 清隆 | 清隆 |
清次 | 清次 | 清次 |
清成 | 清成 | |
清延 | 清延 | |
隆 | 隆 |
となっています。
桂蔵寺の裏手の山にある支倉家の墓所は、昔、桂蔵寺の本堂があった場所であり、その子孫のお墓が周りにあります。
元々、支倉家代々の墓地は桂藏寺にあり、清成の死後、支倉家では、これら代々の墓石をあらかた仙台に運び去ったとされますが、清成の門人達が遺徳を偲び清成のお墓を建立されました。現在でも子孫が墓守りとして川内支倉氏代々のお墓を守られています。
元々、支倉家代々の墓地は桂藏寺にあり、清成の死後、支倉家では、これら代々の墓石をあらかた仙台に運び去ったとされますが、清成の門人達が遺徳を偲び清成のお墓を建立されました。現在でも子孫が墓守りとして川内支倉氏代々のお墓を守られています。
桂蔵寺墓所にある川内支倉氏は
三代 又兵衛常信 | 花岳宗香信士 貞享乙丑天(1685年) 二月二十□日 |
四代 又兵衛常盛 | 了然崇悟信士 正徳五年(1715年) 正月十五日 |
七代 内蔵之亟清隆 | 晩翠道照信士 不明 正月十日 |
九代 清成 | 夫婦墓 壽岳了髙信士 夫人 清良妙意信女 明治十二年四月八日 六十五歳 明治二十年四月八日 七十二歳 |
その他に
千代 | 又兵衛常盛 二女 春室妙花信尼 正徳二年(1712年) 正月六日 二十二歳 |
□□(風化し解読不能) | 常盛の妻 菊玄妙英禅定尼 天和元年(1681年) 九月会五日 |
□□(風化し解読不能) | 花顔妙臨信尼 宝永四了亥年(1707年) 三月十九日 |
□□(風化し解読不能) | 春秋妙意 宝永七□□年(1716年) 二月十三日 |
杉沼 | 金右衞門 顯峰道隠信士 元禄十一戊寅年 七月二十一日 |
堀江 | 仲治 支倉清成 甥 法玉善童子 安政三辰年 八月十六日 二歳 |
不明 | 内蔵之丞清隆の次女 智観童女 安永五年 |
不明 | 内蔵之丞清隆の子 心峰無外信士 天保七年 |
不明 | 内蔵之丞清隆の妻の母 般山貞照信女 寛政六年 |
不明 | 内蔵之丞清隆の妻 蓮台妙香信女 享和三年 |
とお墓がございます。
支倉家お墓参拝に関しては、自由に参拝できます。