これは、禅語であります。
 
青山元不動、白雲自ら去来す(青山元不動、白雲自ずから去来す)」と読みます。
 
青々とした山は元から動かず、白い雲が行き来するという意味となり、 雲に隠れて山が見えなくても山は元の場所から離れているわけでもなく、ただ雲が行き来しているのだということを表しています。

これは、私たちの平常の落ち着いた心を表している語だと思います。
 
例えれば、山は雲で隠れてしまいますと見えなくなりますが、
見えなくなったからといってその場所から無くなった訳ではありません。
 
 
雲が去ると、また、もとのように青々とした山が表れるといった、ありのままの自然の情景と物事を主観的に見るだけでなく、客観的に見ることも大切であることを表しているのではないでしょうか?
 
私たちの本来の心は、この山のように不動ですが、そこに自我の雲(こうしたい、こうなればいい等の自我の欲や思い)が行き来して、自分の思い通りにならないと心の中に雨が降ったり、嵐を起こしたりするように、平常の心が見え隠れしてしまい、心がどこかにいってしまったと錯覚してしまいます。ですが、その雲が過ぎ去るとまた本来の心が表れてきます。
 
しかし、地上から曇り空を眺めても、青空を眺めることができませんが、雲より上に出れば、いつでも青空が広がっています。
 
地上で雨や嵐が起きようと雲の上はいつも青空である。そして、雨が降った後の山は、以前より青々しく見えます。私たちの心も、青空のように澄み渡り美しく穏やかで、様々な経験を積むことで葛藤し、青々とした山のように心が洗われます。
 
心は永遠に曇ったままではありません。その時の欲や思いは、その場で過ぎ去ってしまうのです。
 
小さな子供は、泣いたと思えば泣き止み、いつのまにか笑っている。
24時間泣き続けてはいないもので、白雲のように前の出来事が過ぎ去っていきます。
 
一時的な感情であり、過ぎてしまえば元の心に戻る。
 
現代の私たちは、曇りという一方的な部分しか見ていません。それがいつまでも続くと錯覚しているのです。元から落ち着いた心はあるのに、どこかにいってしまったと外に求めていきます。そして、その上にある青空を知ることができません。
 
現代社会は様々な情報が飛び交います。その様々な情報によって、あちらこちらと心に曇りが生じやすい環境であります。主観的に物事を見つめてしまい、その情報のまま信じ、そのイメージや先入観に囚われ、固執してしまいます。客観的に物事を見ることも大切な時もあります。
 
私たちが元から持つ落ち着いている心があることを忘れてはいけません。
命の光が射している澄み渡った青空がひろがっていることを。

 

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