知足の意味は「足ること知る」という意味であります。
足りていることを知るということは、私たちの社会では難しく思います。
 
世界の中で、日本は物が豊富にあり、物に溢れかえっているといっても過言ではない気がします。
 
現に、店頭に物が置いていない状況はありませんし、沢山の物が陳列されて、どれを買うか悩む程、物に日々囲まれて生活しています。
 
新しい商品が出たと思えば、さらに便利な商品が次々世に現れていき、物の流れについていけない時代ではないでしょうか?
 
新しい機能や便利なサービスに溢れかえっている中、その環境下で、「足りる」ということを考えるより、「足りない」と考えることの方が多いと思います。
 
事が足りていれば、気に留めませんし、考えたりもしませんが、
物が無くならないことは、足りていることでありましょう。
それが、「当たり前」であるかのように、私たちは日常を過ごしています。
 
しかし、2011年の大震災によって、当たり前の事が決して当たり前で無いことに、日常の日々がどんなに満ち足りていたかを知らされました。

電気を使えること、ガスが使えること、水道を使えること、交通機関を利用できること、食料を買える事ことなど日常生活で気にとめないことが、震災によって機能しなくなり、情報なども得られることが出来ず、復旧し使えるようになった時は、大変有難たい気持ちを持ちました。
 
日常の当たり前が無くなることは、普段の日常がどんなに幸せだったかを考えさせられました。私たちの日常の生活は、「足りている」のです。
 
足りているからこそ、一日を過ごすことができる。
その事の有難さを知らなければなりませんが、私たちは、中々気付きもしないのです。
失って初めてそのものの有難さを知るように、普段の日常生活は、色々なものによって支えられていることを気付かないといけないのです。失ってからでは遅いのです。
 
震災当時、私は法事の際に、この「知足」の話をしました。
その法要に参加されていた方々の中に、一人涙を流しながら、うなづき、真剣に聞いている方がいました。法要が終わると、その方が私に近づいて
 
「和尚さん、私は、家族や家を失い、日常の有難さを知りました。今日、和尚さんの話を聞いて、涙が止まりませんでした。震災の後、沢山の人々に助けてもらい、今の自分の生活があると知りました。これからも、日々感謝し、足りていることを知ることを忘れません」
 
と話されたのを思い出します。
 
足ることを知ることはかけがえのないものです。
日常の当たり前は、いつか失ってしまうもの。
だからこそ、今を見つめなければならないのです。
 
ある時に、伝道掲示版にこう書かれていました。
「貧乏とは、お金の無いことではない。足ること知らず、まだ足りない、まだ足りないと、心が貧しく乏しいことを言ふ」
と見かけたことがございます。
 
私たちも日々の日常を見つめ直し、感謝しなければいけません。
 
私たちを支えてくださっている資源や人、動物や自然に「ありがとう」という感謝の念を抱き、満ち足りている世の中を知り、欲に惑わされず、足りていることに気付き、もったいない精神を後世に伝えていかないといけない時代ではないでしょうか?
 
 
 

 

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