道具という言葉は、皆さんもご存じでしょう。先日、何気なく仏教大辞典に道具が載っておりました。広辞苑には、「物を作り、また事を行うのに用いる器具の総称」と載っていますが、もうひとつに「仏道修行の用具。仏具」と載っています。
このもうひとつを皆さんは知らないと思います。
私たちが日常に使われる言葉に「仏教の言葉」が知らず知らず使われています。
「未曾有」や「意地」、「大丈夫」、「冗談」、「玄関」「挨拶」「安心」などがありますが、まさか「道具」までが仏教の言葉とは思わないでしょう。
仏教大辞典に「仏道を修行する資助となるべき一切の器物をいふ。転じて、世間の一切の器物を指す」と書いています。
道に具わる物が「道具」です。
道といえば「平常心」と祖師が言われたり、あるときは垣根の前の道を「大道長安を透る(すべての道が都に通じる)」と言われたりして、日常のすべてが仏の道に通じていると教えられています。
道具を使うことは、簡単ですが使いこなすのは中々難しいことです。
物と自分が一如とならないと使いこなせません。
例えば、料理を作る際に、包丁で野菜などを切りますが、考え事など気がそれていると指を切ったりと危険です。
車を運転する時も、集中していないと事故を起こし身に危険がせまったりと、時に危害を与えてしまい資助となるべき物がならなくなります。
料理を作る時、そこに包丁と自分が一如となり上手に使いこなせる。
車を運転する時、車と自分が一如となって上手に運転できる。
自分と物が一如となって初めて資助となるべき物を使えるわけです。
その道を資助するものが道具でありましょう。物に使われ害するものは道具ではありません。
現代社会は物が豊富にあります。次々と新しい物が世に現れてきます。
その物の機能をすべて使いこさせている人ははたしているのでしょうか?
逆に物に使われているのは人間ではないかと思うほどです。
サービスが増えて生活が便利になった反面、私たちは物を使うよりも、物に使われて自分を見失っているのではないでしょうか?
サービスが増えて生活が便利になった反面、私たちは物を使うよりも、物に使われて自分を見失っているのではないでしょうか?