衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)とは、四弘誓願文(しぐせいがんもん)というお経の最初の文です。
 
これは、坐禅修行をするものは「弘誓の願(ぐせいのがん)」をもつべきものだというのでありますが、坐禅修行をするものだけではありません。人生を真面目に価値のある生き方をしようとするものに「誓いや願い」を持つことが必要だと思います。
 
それが目標となり生き甲斐を感じましょう。しかし、いきあたりばったりのいい加減な生き方では生き甲斐も感じ無く、脱力感や悩むばかりの日々となることでしょう。
 
『衆生無辺誓願度:生命あるものは限りないけれども誓ってみちびかんことを願う』という意味であります。
 
最近のニュースでは、近親者や自分勝手な考えで他の命を奪い、いじめ問題、自死問題、政治に関しては国民の事を考えているかを感じられない自分の利益を優先する利己的主義、親や子、地域や社会の絆や生命の尊さが失われてきている報道ばかりといっても過言ではないような気がします。
 
このような問題が多い時代に生きる私たちは、一人一人が生命について、尊厳なる人格について考えなければならないことだと思います。
 
そして、今の平和な日本社会は、先人達が子孫のために培われた「未来」で、私たちもまた、子孫たちが歩む「未来」をつくり、託していくのです。
 
だからこそ、「いのちの尊さ」「社会への感謝」を伝えなければなりません。
 
当たり前のように居る人が急に居なくなる、日常何気なく会話していたのが出来なくなることがこんなに辛いことかと思わされ、大切な方々と日々いられることが自分の人生に重要な存在だと感じられた時でもありました。大切なものを失うことは言葉で表現できないほど辛く悲しいものです。
 
平成23年に起きた東日本大震災で大切な家族を失った方や普通の生活を奪われた方々、放射能により故郷を奪われた方々はどんなに辛いことかと思います。
 
当たり前に思うことが決して当たり前ではないことに気付かなければなりません。
ましてや、他を傷つけることは、その方に関わるもの多くが悲しむことに繋がります。
 
そして、共に居ることの大切さ、日常生活を営めることの大切さ、目でものを見、耳で音を聞く、身体でものに触れ、舌で味わい、心で思う、命が無ければなしえないことと感じなければ、「生命の尊さ」、「日常の尊さ」に気付きません。
 
その命は、たくさんの尊い生命によって維持されています。決して一人では生きられません。
呼吸ができるのも、大地を踏みしめるのも、水を飲めるのも、自然の恩恵なのです。
普段の生活の一つ一つに必ず繋がりをもって、私達はこの世に居ることができ、お陰様なのです。
 
それに、その命は世界に1つしかいないこと、代わりは誰にもできない尊厳なる人格が具わっております。自分の命の尊さを知ることは、他の命の尊さを知ることです。
  
先ほど述べた大震災では、国境を超え世界中の方々が苦しむ被災者達に、ボランティア・救援物資・チャリティー・いろいろな方法で手を差し伸べ助けられました。他に手を差し伸べること、人が持つ優しさこそ美しいもの、私達に具わっている仏の慈悲心と感じます。
 
私達一人一人が迷い苦しんでる者を見て見ぬふりをせず、いろいろな方法で手を差し伸べ助け合い、共に分かち合うことが大切なのだ、それが「衆生無辺誓願度」と思い、平和を保ち、皆の幸せを与える人の美しい姿だと思います。
 
 

 

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